いっすねー!山脇のインフラ訪問記 第1回 大河津分水編vol.12022年8月26日

大河津分水の歴史は映画並みの壮大なストーリー!

2022年、通水してちょうど100年を迎える大河津分水。「Re:Thinkインフラプロジェクト つなごう!新潟の未来!」のナビゲーターに就任した「いっすねー!山脇」さんが、長男の春くん(5歳)と一緒に大河津分水の関連施設を訪ねました。燕市にある信濃川大河津資料館では、200年以上にわたる分水の歴史や役割を、パネルや模型、さらに映像やシミュレーションで体感できます。

まずは4階の展望台へ。360°のパノラマビューが広がる開放的な場所。大河津分水の周辺を一望しました。

-- 昔、信濃川は、3年に1度、氾濫していたそうです。人々が幕府に水路をつくってほしいと懇願して。でも、なかなかお許しが出ずに、工事が始まったのは明治に入った1870年。初めは、手で掘っていたそうです。

山脇 どうして、この場所に水路を造ることになったんですか?

-- 信濃川がカーブしていて、この辺が最も日本海に近かったんです。
ところでこのあたりは川幅が720mあるんですが、分水路を端から端まで見て、何か、気づきませんか?

山脇 あ、なんか、海の方に行くと狭くなっていますね。

-- そうなんです。河口のあたりは川幅が180mくらいしかないんです。出口が狭いと、特に水量が多くなった時、スムーズに洪水が流せないので、山を掘削してあと100m川幅を広げる大工事「令和の大改修」をしています。

山脇 もう水路というより大河ですね。

-- 大河津分水を造った時には、2880万トンの土を掘りました。東京ドームにして23個分。土を積んだトラックを並べると、地球1周できるそうです。

山脇 ちょっと多すぎて想像できませんね。その大量の土はどうしたんですか?

-- 沼に埋めたり、すべて有効利用したそうです。土は貴重でしたから。そして山を削ったことで、海が見えるようになったんです。

山脇 あ、佐渡もちょうど山の間に。すごいいい景色。

-- そうなんです。山がなくなって開けたことで、この景色も生まれました。

-- あそこに見えるのが、可動堰です。大河津分水路に流す水量をコントロールする建造物で、渇水時は閉めていますが、上流から流れてくる水量が多ければゲートを開けます。

山脇 ここがまさに、分水の心臓部なんですよね。

-- そうです。そして、信濃川の方にもあって、こちらは洗堰(あらいぜき)。信濃川本川(ほんせん)に流す水量をコントロールする場所で、毎秒270トンの水を流しています。

山脇 それってどのくらいの量なんですか?

-- 1秒間で、25mプールが満杯になるくらいです。

山脇 この場所では、2つの堰が同時に見られるんですね。堰好きにはたまらないスポット!

-- 可動堰の上は、土日に人が通れるようになっているので、近くの人はよく散歩したりしていますよ。

山脇 気持ちよさそうですね。

 

信濃川大河津資料館の2階には、約100年前の工事で実際に使われていた道具などを展示。山脇さんも春くんも、古い機械や道具に興味津々。

山脇 これに土を入れて運んでいたんですね?

-- 土砂を運ぶトロッコ、通称鍋トロです。鍋みたいな器に土を盛って、人力で運びました。

春くん お客さん乗せるの?

山脇 確かに、遊園地の乗り物みたいだけど、人じゃなくて土を載せたんだって。

 

1階では、大河津分水の歴史と恵みを解説。大きな被害を出した明治時代の水害「横田切れ」を絵や写真、紙芝居などで体感できます。

-- 1896(明治29)年の横田切れでは、あそこまで水が来たんですよ。

山脇 いや、もう身長以上ですね。

-- 至るところで川が決壊し、越後平野のほぼ全域が約1カ月間浸水。大河津分水の工事が再開されるきっかけになったそうです。

山脇 1カ月間って・・・。大河津分水がなかったら、今でもそういう災害が起こっていたかもしれないんですね。ぼくたちの暮らしがどうやって守られているのか、よくわかりました!

→ vol.2へつづく

通水100周年を記念したフォトスポットで記念撮影!

■信濃川大河津資料館
燕市五千石
開館時間/9:00~16:00 休館日/月曜(祝日の場合は翌日)、年末年始
TEL/0256-97-2195

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